去年の今日。 5年間一緒に過ごした我が家の雑種犬マロンは空に旅立ちました。
マロンさんとの出会いは保健所。
本当は「猫を飼いたい」子供たちの希望から猫を引き受ける予定で
長野保健所に出向いたのですが、
やたらと檻からこっちを親しげに見てくる彼女のことが
印象に残っていて「一応候補に入れておこう」と記入していたら
庭があるという事で「犬でもいいでしょうか・・・?」と
保健所の方に恐る恐る聞かれた記憶があります。
名前は兄弟で候補を3つ出して、お父さんのくじ引き。
マロン 由来はフランス語で「茶色」 ・・・
実は犬が大好きな私。
嬉しいの3割、怖いの7割でした。
理由は、数年前に体験したビーグルとのお別れ。
ペットロスから全然回復できていなかったんです。
実家の知らせを受けてすぐに駆け付けたのに、ビーグルとの思い出の品すべてが
私が駆けつける前に片付けられていたので、最後の姿も見ていない。
お別れもできてない。残ったものも何もない・・・
数日前に実家にいたのに、お年寄りだったし寝ているようだからそっとしてあげよう。
と思い声をかけなかったんですよ。
それが生きていた姿を見れる最後のチャンスだったのに・・・
そんなお別れだったので、気持ちに区切りなんて付けられるはずもなく
先に「数年前」と書いているのも実はショックでいつの出来事だったのか
あれだけかわいがっていたのに、記憶になくて思い出せないんです。
今でも思い出せないままです。
そんなことがあっただけに、私自身は犬を再度飼う。
というのにためらいの気持ちもありました。
ですが、もともとの犬好き一緒に過ごし始めれば、心が満たされる。
病院に連れて行く・注射のは私の仕事で、犬からは嫌われる役を引き受けていただけに
毎度毎度、他の家族が笑ってしまうほどの塩対応でした。
はじめ「犬怖い」だった上の子も散歩に行ったはずなのに、いつまでも帰ってこない
やっと帰ってきたお思えばマロンさんを抱きしめながら帰宅するほどの犬好きに。
マロンさんはもともと保護された犬でした。
もともとついていた首輪はボロボロ、常に上目使いでトラックの音や
手をたたいて呼ぶときの拍手の音にさえビクビクするほど臆病
なのに散歩中他の犬に吠えられても丸無視。決して吠えない子でした。
5年の間に吠えたのは5回もないかも。
保健所の話だと「虐待されていた可能性があるのでは?」
というくらいおどおどした子でした。
引き取った時点で、推定7歳でしたので
「もう余生だね、いっぱい甘やかして生きててよかった。って思えるようにしてあげよう」
と甘やかして、時に思春期の息子たちの傷ついた心に寄り添い
散歩では天然っぷりを発揮して、散歩で見かける人たちに笑いを提供して
穏やかに過ごしていました。
そんなマロンさん
末期のがんと判明して2週間での旅立ち。
あまりにも速いスピードで逝ってしまった。 と思いますが
マロンさんは私が先に抱えていた、ビーグルとのトラウマも持っていきました。
それはコーチ仲間でペット専門にコーチをしているMちゃんのおかげでもあるのです
まず病気が判明してからすぐにMちゃんに連絡をとりました。
病気が発覚して手の施しようがないこと
残された時間をどう過ごしたいか(物理的にも、メンタル的にも)
万が一その時を迎えたらサポートしてもらってもいいか?
前のビーグルの件があるので、その時が怖い
私自身として、母親として家族とどう向きあっていくのが理想化?
その時を迎えたらやりたくないことは?
等
細やかにセッションを通して、プロならではの
「死ぬための自然な変化」
等も教えて貰っていたので、マロンさんが最後の呼吸をした後
どれくらいの時間なら抱きしめていても大丈夫。
この時間を過ぎたら、きれいなままで見送るための処置をスタートさせないといけない
衛生管理など、専門的なことも教えて貰っていたおかげで
息子たちも交えながら一緒に見送る準備をしていきました。
その瞬間はすごく泣いていた息子たちも
見送る準備段階には、マロンさんの思い出話をしたり
「マロンさんのことだからまた迷子になるんじゃ?」
等と穏やかにマロンさん中心の作業ができていたこと
動かなくなっても、生きていたころと変わらない、きれいな状態のマロンさん
本当のお別れの瞬間まで一緒に過ごせた時間。
これらは私が抱えていたトラウマも、悲しいけれど次のステップに行くための力も
そして初めて【自分が世話をした生き物の死】を体験した息子たちにも
すべてを温かく包んでくれた貴重な体験だったと思います。
今まで体験した中で最も穏やかに受け入れることができて、送り出すことができた
後悔が微塵もない見送りがあるのかと我ながら驚きました。
コーチングを通して「死ぬという事」に向き合ってきたからこそ
息子たちにも「これから起こる変化」を説明できたし
いくつかある選択肢の中から息子たちの選択ができたのは
「死」への受け入れ態勢を作るのにとっても機能しました
納得のいく看取りがでるのは、いつまでも悲しみにとらわれず
日常生活に戻るための第一歩。
って感じています。
当然ながら大事な家族を亡くすのですから、悲しみは当たり前です。
「もっとあの時こうしてあげていたのなら」
「こんなことができたんじゃ?」
って気持ちが沸き上がって当然です。
変化が起きる前に一度だけでも【万が一】に対して向き合っておく
向き合う事すら怖いと思います。
そうはいっても、こればかりは避けようがない事実としていずれ来ます。
だからこそ言いたい
「死ぬための未来を一緒に語りませんか?」
マロンさんの命を通して私はそう学びました。
マロンさんは私の経験の中で最も短い期間しかいられなかったけれど
すごく大きな贈り物をしてくれた、最高に素晴らしい自慢の雑種犬です。
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