ファウンデーションを扱うといくつか柱というものがありまして、その中の一つに
「境界線」
というのがあります。
大体人が怒ったり不快に感じるのって、この境界線に土足で踏み込まれた時
が主なんですが、相手に踏み込まれたのは認識できても、自分が踏み込んだのは認識しずらいんですよね。
今日はそんな私の失敗談
*相手には絶交されてしまったけれど、相手側の事も少し触れなければならないので、相手の活動も考慮し本筋から逸れない程度に大きくフェイクが入っています。ご了承ください。
私には、折に触れ手紙のやり取りをする仲の、大切な友人Aがいました。
大人になってつながりはSNSに変化し、やり取りをしていたのだけれど、友人がある某スピリチュアル的な団体に興味を持ってそこの学習会に通うになってから、言う事が大きく変わってしまったのです。
「幼馴染を懐かしんでいるけど、美化させすぎ。思い出すその人達ほとんど中学に進学してからはろくな人じゃなかったよ」
と言われるたびに、気持ちがモヤーッとしながらも、友人Aも表に出さない面ではいろいろあったんだろうな。
と思いながら友人視点の話。として聞いてはいました。
そのうち友人Aは某スピリチュアル団体の講師を取得。活動を始めた友人Aの肩書は
「某スピリチュアル団体公認 お金と友達になるための講師」
『今日も後悔しながらお金使っちゃいました、こんな思いを持ちながら使う私って講師としてダメですね。ダメ講師ですが某所で罪悪感を感じないで使うお金の講座を開催しちゃいます。』
的な記事へのコメントは「正直に言えちゃうなんて○○先生の教えを守っているからですね」のオンパレード。
そんなある日の友人Aの投稿に
「お金の講師を名乗るのなら、もう少しブランディングを考えたほうがいいよ。最近の発言友人のいいところ全然見えてないよ。怪しい団体のじゃなくてFP取りなよ」
と書き込んじゃったんです。
しばらく私の投稿に返信は付きませんでしたが、その前後には返信が付いていたので、目を通してはいるんだろうなと推察はできました。
その一週間後、投稿も友人Aのページも全部見えなくなったので「ブロックされたんだな」と理解しました。
Facebookの機能で一応コメントに返信が付くと、コメント元へ連絡は来るけれど相手側のブロックだと、自分への返信が見えなくなるんですよね。なので誰がどんなコメントをそこにつけたのかは、今も知らないままです。
あれだけ小さなころから、なんでも打ち明けて励ましあい、大人になってからも行き来するほど仲が良かった友人Aが、こんなことで私を絶交するだなんて!
と友人Aの了見の狭さと、似非スピリチュアルへの傾倒の仕方に、この団体の「○○先生ってすごい」「○○先生の言うように自分を変えなくちゃ」という人たちに対しては以来不信感を持つようになりました。(はっきり言いますが今でも嫌いです)
ファウンデーションの境界線を学んで
「あ!あの時の友人Aへの私の対応はまさにこれだったのかも!私は友人Aの為と思いつい、あれこれ言ってしまったけれど、友人Aにとっては大きなお世話だったんだ!」
と気が付いた。これが私が相手の境界線に踏み込んだ込んでしまったお話。
ある程度時間がたった今「友人Aと関係を改善させたいか?」と聞かれたら・・・
正直なところ分かりません。
きっと私が懐かしく大切にしている思い出や価値観を、あの頃のように否定されるのは嫌だな。と思うからです。(私の思い出という境界線に入られたくないという意味ですね)
そう思うのは友人Aと共通の友人Bに絶縁後「Aと絶交してしまったんだけど、Aが言ったことは事実なの?」と確認したところ「そんなことなかった。中学でもみんな仲良かったはず。どうしてそう感じていたんだろう?」と同じ環境にいても【絶交した友人A】と【共通の友人B】は見ている角度が全然違った。という事が分かったんです。
友人Aは、これまでの傾向から「自分の都合のいい角度からしか見ないし、受け取らないんだろうな。」と思うからです。(時間がたって変わっている可能性もありますが)
でもそれが間違っているとは思いません。
どう受け取るのか? 受け取る受け取らない。 保留にする。考えを変えない。考えを変える・・・
それらは友人Aの自由で、私があれこれできるものでもないからです。
離れて行った友人Aとのやり取りは、私自身が学び知るいい事案をくれたな。とは思っていますけどね。
とは言え、少なくとも私の子供時代。ともに笑い遊んだのは、楽しい思い出の一つ。という事実は変わりません。そういう面を時々思い出して「元気でいるといいな」と思ってくれるだけで今は十分なんですよ。
ファウンデーションで、相手のエリアを尊重するを身をもって知った私ですが
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