昨日の記事は事象についてでしたね。
あのことを書こう。と思ったときから随分「どうしたもんだろうな」と
頭の中でグルグル・・・ 数カ月は悩みました。
どこにフォーカスを当てる?
これを書くことで私が伝えたい点は?
自分自身の中の何が知りたいの?
なので昨日記事を打ち込んで、公開ボタンを押すとき
「ええい!ままよ!」 って思いました・・・
さて、アレを上げてみた事で私の中で大きな発見が2つ
未完了と言いつつ、本当は私の価値がものすごくはっきり出ているな。
旦那からのOKは出ていたけれど、旦那の懐の広さに感謝だなぁ。
先ずは前者
どうやら私は、自分が姑から言われても「フーン、むかつくこと言うのね」
程度で流せていたのに、今回の事はどうにも流せていない自分がまだいる
それは、自分が大切だと思うモノを攻撃してくる人に対しては、
相当怒る。 怒るというよりも「怒髪天を衝く」とか「逆鱗に触れる」とか
そういう言葉が当てはまる勢いで、まだ本当に言いたかった事を言えていないからだな。
という発見。
どうも私の中の価値として「子供に」というワードがどうやらポイントのようだ。
私が介護していた実の祖母も、嫁である実母に嫌がらせはしていたけれど、
私や兄弟、周辺の子供たち、近所の養護園の人達への支援は惜しまない人だった。
言い方は適切ではない部分があるけれど、
生活を送るうえで支援を必要とする人達(弱者・子供・障害を持つ人)を
排除しようとしたり、隠れて攻撃する人ではなかった。
という事があったので、
自分よりも弱い人達に保護したり援助・支援をするのは人として当たり前
排除しようとする人は、認知が間違っている歪んでいる人たち
そういう人達を許してはならない。としての価値が私の根底にあるじゃん!
と発見!
発見!なんて言っていますが、コレ当たり前すぎて、昨日の記事を上げるまで
全然気が付かない自分の中にある価値でした。
なるほど!
私の中であまりにも 考えるほどでもないくらいに当り前な感覚に対して
思いっきり反対方向に触れる行為を目の当たりにしたがゆえに
「義母は排除すべき人達の仲間!私アナタの事嫌い!」
という感情が生まれたんだな。価値を踏みにじってくる人に対しては仕方ない。
私の中において、子供は健全な育成をされるべき。という価値があり
その価値をかみ砕くと(今回に関与している部分のみですが)
☆気持・心をつぶすような言葉をかけてはならない。
☆たとえ子供でも一個の人格であるので、対等に話をすべき。
☆自身の疑いがあっても、確証を得るまでは相手はまだシロである。
☆可能である限り、大切な話はきちんと伝えたい相手に向いて話をすべき。
(発達障害などで、出来ない場合それ相応に対応の変化をつけるのも当たり前)
☆(今回の場合は)犯罪に巻き込まれている可能性もある、慎重に進めるべき。
と今回の件だけで現時点で気が付いただけでも、これだけの私の価値を
踏みにじられた。という事が分かりました。
書いてみてどうだった? と自分に問うと
話していた時とはまた違う気付きの深さを味わっています。
マイコーチと話してある程度は収拾をつけたつもりでしたが、
公開してみることでもう一歩踏み込んだ感 が自分の中ではしています。
そして何より後者
「姑の事はいつかブログ記事にすると思う」と宣言はしてあったけれど
それに対してOKを出してくれて、ホント感謝です。
そして、大っぴらに「私この人嫌い!」と認知してもいいの?
というハードルを越えるのにも実は相当な抵抗がありました。
ソコを超えたことについて次回は記事にしてみようかなと思っています。
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